Vol.105

Vol.105
『独り言』                    Vol.105                    
「登山靴」
1957年4月1日売春防止法が施行、いわゆる赤線、青線が
消えたのである。
そればかりが理由ではないであろうが、父は若者たちのエネルギーを
何かで発散させねばならない。「それは何か」と真剣に考えた末
体を使いなおかつ大量にエネルギーを消費するもの、それは
野山を走り回って育った父には「登山だ」と確信したそうだ。
そのころ父は、東京でメーカーの工場長として招聘され、その工場に
以前、勤めていた会社の後輩たちを呼び寄せていた。
そんな時、台湾より製靴機械指導者として招聘され、一年後に
帰国して独立を決意する。
そのころだった、後に東京で有名な登山用品店になるオーナーが、
これもまたどこで仕入れたのか進駐軍が残していった「野戦靴、
防寒靴」を持ってきて「これを登山靴に作り替えられないか?」
おそらくヨーロッパの参考になる見本の登山靴があったはずだが、
それでも今では考えられないことを依頼されたのである。
私など、この話を聞いた時「無理だ、無理に決まっている。
そんなこと出来る訳がない。」と、父はニヤニヤしているかと思えば
真剣な顔をして「とても難しかったが、もの凄く面白かった。
とても勉強になった。今でも会社にそれを造れる職人が数人残って
いるが、それ以外の人たちは造れない。」 なぜ?「機械で造ろうと
するから」 造れる職人達は、いずれも私が生まれた時から居た
人達で私のことを「ゆう、ゆうすけ、ゆうぼう」などと色々な呼び名で
可愛がってくれた職人達だ。戦後十年この時代、まだまだ物が
無く登山靴などの高級品は、大卒の給料でも買えなかったそうだ。
そんな時、父が造り変えた「登山靴モドキ」が、信じられない程
売れたのである。その登山靴だけではないとしても休日には
なんとお客さんの行列ができて、その行列目当てに
アイスクリーム売りの屋台が出たそうだ。
さすがにこの話は、父が少し盛っているな、と思い母に尋ねると
笑いながら「本当だよ」。驚きだった。凄い時代だったのだ。
かくして父は、本格的に登山靴を造り始めたのだ。
父は、自分で造った登山靴を履いて色々な山に入るのである。
靴のテストをしているのだが、元々福島の野生児だった父にすれば
楽しくて仕方なかった様に思える。
いつだったか、ある山村の民宿に泊まり翌日、試作の登山靴の
テストを兼ねて早朝に登山道などない山に入り「3時に戻る」と
宿の主人に伝え時間になり山を見ていると朝、山に入った所と
1メートルと違わずに出てきたのを見てご主人が驚いていたそうだ。
山好きの父は後年、三浦雄一郎氏の御父上である
三浦敬三先生を師と仰ぎ先生のお供でよくスキー場造りの
山の下見に同行させて頂き大変勉強させて頂いたと喜んで
話してくれたことを思い出す。
桁違いの山好きで、アウトドアマンで、山菜取りを含めると
冬のスキーを入れて一年中山に入っている人でした。
登山靴、スキー靴の始まりを二回に分けて書かせて頂きました。

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