東京に戻った父は、どの様な「つて」が、あったか私など知る由もないが
どこからか、スキー靴の中古品や壊れているがそれらしい靴を集め始めた。
そして修理の完成度を上げるための道具なども集め、これらを運ぶために
若い弟子を一人連れて再度スキー場に現れたのである。
スキー場では相変わらず面白い様に靴が壊れ、中にはとても修理出来ない
靴も多く出た。そこで持って行った中古品を薦めるのである。
その時代スキーなどを楽しめる人達は限られており、中でもスキー靴を
よく壊すのは若い大学生が多く、その大学も限られていて父が言うには
裕福な子弟が多い〇〇ボーイと呼ばれている学生が多かったらしい。
今では考えられない事が起こる。片足だけ修理不能となり、「どうしても
片足だけ売ってほしい」と言うが、サイズが合わない。「それでも構わないので
売ってほしい」と・・・。 丸文のご主人はスキー金具の調整が出来る人で
サイズの違う靴でも金具で調整して使える様にした。
カンダハーと云う金具だった。凄い時代である。しかも儲かった。
滞在費を払っても相当の利益が出た。「その売上金が東京に戻れば
もっと早くお父さんは独立が出来た。」と後年母がよく話していた。
では、その売り上げ金は一体どこへ消えてしまったのか・・・。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
川端康成の「雪国」の冒頭である。東京上野に向かう石打の
次の駅が「雪国」の舞台となった越後湯沢である。
そして宿はあの「高半」 そこそこの金を懐に男二人が・・・。
あとは諸兄の皆様のご想像に託します。
かくして父は本格的にスキー靴を造り始めたのです。